「古典」
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」
「行く川の流れは絶えずして しかも本の水にあらず
よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて 久しくとどまりたることなし」
と文字数稼ぎのごとく、学生時代に古典の授業で暗誦させられた「平家物語」と「方丈記」の冒頭部分を書き出してみました。
というのも、これらの文章が表現しているのは世の中の移り変わりや栄枯盛衰ではありますが、その世の中を形作っているヒトもまた然りです。
些か大袈裟ではありましたが、40兆もの細胞の活動のもとに成り立っているヒトの身体も日々の経過とともに移ろい絶えず変化しているものです。
身体の「整った状態」に対して、痛みの原因として「歪み」や「ズレ」などの単語で身体の「整っていない状態」を表現せざるを得ないのですが、その「歪み」や「ズレ」はその方が何をしてきたか?の「活動記録」でもあります。
ですから、私たちが施術を行う際に「何をしたのか」や「どう使われたか」を伺いその時点で確認出来る身体の状態をふまえて、何故そのようになったのか?を探ります(その際「どう使ったかの自覚や認識」の有無はあまり関係ありません)。
「歪み=痛みの原因」
と考えるとネガティブなイメージになってしまいますが、
「歪み=使用後の形」
という現実的な視点を持つと
「使用後は元の状態に戻せばいい」
と対処へと意識が移りやすくなるのではないでしょうか?またそうすることにより身体が受けた刺激や負荷の程度にも目が向き過負荷になることを避けられると思います。
先人の叡智から強引に結論づけてしてみました。
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