「普通」
みなさん、こんにちは。
12月の初めに2019年サッカーワールドカップロシア大会のグループ分けの抽選が行われました。
日本はグループH に入り、ポーランド、セネガル、コロンビアと決勝トーナメント進出をかけて対戦します。
W杯優勝経験のある国が同組にいないこともありくじ運には比較的恵まれた、との見方もありますが、予選で戦ってきたアジアのどの国よりも手強いのは間違いありません。是非とも予選を勝ち抜いて、ベスト8へ進んで欲しいものです。
ところで、日本は1998年のフランス大会以降、自国開催の2002年を含めて6大会連続出場となります。アジアにおける日本サッカーの位置付けは確固たるものとなっています。
そうしますと、楽な戦いは無いと思いますが、かれこれ20年間はW杯に出るのが「普通」なものになってきている感があります。
ですが、1993年の「ドーハの悲劇」を含めてそれ以前の予選には、ここ数年のアジア予選を観るのとは全く違う「今回こそは悲願達成を!」という祈るような雰囲気がありました。
だからこそ、1997年の所謂「ジョホールバルの歓喜」で初出場を決めたときの喜び様は大変なものでした。
「W杯出場」の価値が「悲願」だった頃と比べると、「当たり前」になった昨今において仮にこの先アジア予選で敗退した場合、「落胆」よりも「非難」が強くなるような気がします。
「普通」が普通でなくなったとき、「当たり前」にあったものが無くなったときに、初めて「普通であること」の重さを感じられるのかなと思いますし、それを維持し続けることの難しさを知るのだと思います。
「普通」とは「恙無いこと」「淀みない」ことだと考えると、とても有難い状態だと思います。
このことは、サッカーに限らず様々なことに当てはまりそうです。自分自身も常に胆に銘じておきたいと思います。
今年のコラムも今回で最後となります。この一年間も大変お世話になりありがとうございました。
この場をお借りして廣戸道場スタッフ一同を代表してお礼を申し上げます。来年もよろしくお願いいたします。
どうぞよいお年をお迎えください。 |