「普通であること」
みなさん、こんにちは。
今年は昭和の大作詞家、阿久悠さんの生誕80周年、没後10年の年だそうです。
代表作は?と思い調べてみると、まあそれもこれも阿久悠さんの作品か、というくらいでとても書ききれません。
そんな阿久悠さんがされたお仕事の中に
「甲子園の詩」
というものがあります。
これは、1979年から2006年までの高校野球、夏の甲子園での試合を阿久さんが観戦されて詩を書かれ、スポーツニッポンの誌上で連載されたものです。
その、延27年、総数350以上の詩の中の一つにある、一節を引用させていただこうかと思います。
普通の人が
確実に普通のことをやり
普通に徹することで
特別をしのぐ結果になることを
きみらは
鮮やかに証明してみせた
怪物もいない 大器もいない
怪童も 天才も
ましてや 野球の鬼も見当たらない
普通の体躯の 普通の技の
普通の少年たちが
華やかさを捨てて地味に
大きさを捨てて確実に
幻想を捨てて現実に
そう
出来ることを出来るように
臆することなく素直に出して
晴舞台での華やかな一勝を得た
少々長い引用ですが、作品の半分ほどをご紹介しました。
詩の中にあるように、一般の高校生と何ら変わらない「普通の人が普通に徹して」勝利を挙げたチームの様子を詩にされています。
この詩が私にとってとても印象的でいつまでも記憶に残っているのは、高校野球の世界において私自身も、「特別な一部のエリート」ではなく、「大多数の普通」の部類の人間だったからだと思います。
そして、この詩が書かれてから29年になりますが、あらためて読み返してみると当時とは違った意味で考えさせられるもの、そして感じられるものがあります。
もしかしたら、「特別な人」も日頃の地味な活動の積み重ねがあってのことなのかな?と思いました。
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